世界初の完全オートメーション工場
ねじ製造の世界的な流れ
レオナルド・ダ・ヴィンチが締結というねじの機能を発見してから、ねじは様々な分野で使われるようになりました。
それに伴い、ねじを製造する人たちも増えていきましたが、当時のねじ製造は家内工業。ちなみに家内工業とは、家族を主体に自宅で作業する工業形態のこと。
工場ではないため設備は簡素で、職人同士が技術を競い合うということもありませんでした。
そのためねじの精度は低く、大量生産が行われることもなかったのです。
ねじ製造は自宅から工場へ
しかし、16世紀半ばには、ねじ製造の盛んな地方が出てきました。それが、イギリスのミッドランド地方です。
鍛冶職人が集まるこの町で、ジョブとウィリアムのワイアット兄弟が、ねじ製造の現場に画期的な手法をもたらしました。
ワイアット兄弟が発明した製造法は、ねじを手動ではなくカッターで自動的に切るというもの。これにより大量生産が可能になり、ワイアット兄弟は世界で初めてのねじ工場を作りました。
ねじの大量生産が、製造現場を自宅から工場に変化させたというわけです。しかし、残念ながらワイアット兄弟の工場は失敗に終わったとされています。
世界初のオートメーション工場
ワイアット兄弟と同じ頃、ジェシー・ラムスデンはねじの精密化に取り組んでいました。木製旋盤の代わりに金属旋盤を作り、ねじの精度をどんどん上げていったのです。
大量生産のワイアット兄弟と、精密化のジェシー・ラムスデン。
この両者の功績を一本化したのが、ヘンリー・モーズリーです。イギリス人のモーズリーは、フランス人のマーク・イザムバード・ブルネルと共に、イギリスのポーツマスに工場を建てます。
モーズリーはねじに限らず、様々な工具や旋盤を製作し、「工作機械の父」とまで呼ばれた人物。
ポーツマスの工場には様々な工作機械が設置され、ここが世界で初めて“自動化”に成功した工場とされています。
この工場で働いていたのは、わずか10人。10人の工員が工作機械を使うことで、なんと年間16万個の滑車を作ることができたと言われています。