江戸時代は楔の文化
ねじのポテンシャルを知りながら…
火縄銃と共に日本にねじがやってきたのは、1543年のことでした。
1543年と言えば、1467年に起こった応仁の乱から続く、戦国時代の真っ只中。日本各地に戦国大名が群雄割拠し、戦いに明け暮れていた時代です。
刀や槍で戦っていた当時、火縄銃の存在は、戦国大名の勢力図さえ塗り直す可能性を秘めていました。
事実、実際に戦場で火縄銃を使ったのが、戦国時代のヒーロー・織田信長です。信長は長篠の戦いで火縄銃を使い、武田勝頼の軍勢を打ち負かしたと言われています。
長篠の結末を知った誰もがその威力を恐れ、火縄銃を自軍の戦力にと願ったことでしょう。
しかし、1603年には徳川家康が天下統一を成し遂げ、そこから日本は天下泰平の江戸時代へと突入します。戦のない平和な世の中で火縄銃の需要は下火になり、それとともにねじの存在も忘れられていったのです。
ねじが発達しなかった太平の世。江戸時代は楔の文化
日本でねじの開発が進まなかったのは、日本人がねじの重要性に気づかなかったからかもしれません。しかし、それと同時に日本には、ねじに代わるものがあったためと考えることもできるのです。
この時代の日本において、部材と部材を接合させていたもの。それはねじではなく、楔(くさび)でした。
楔とは、三角形の木片のこと。楔には木材や石を割り裂いたり、また反対に部材と部材を接合させたりする働きがあります。
前者は三角形の斧の刃をイメージしていただければ、わかりやすいと思います。鋭角部分を木材などに打ち立て割れ目を作り、金槌などでそのまま2回、3回と楔を打ち込むことで、部材が割れるというわけです。
一方、ねじに代わる働きをしたのは後者の使い方ですが、こちらの技術は木造建築の世界で発展していきました。
宮大工に受け継がれる楔の技術
古来より寺社仏閣の木造建築では、部材の接合に釘などを使うことはありませんでした。その代わり、一方の部材の端を凸状(ほぞ)に切り出し、他方の部材の端にそれを差し込む凹状の穴(ほぞ穴)を作ります。
この凹凸を嵌めあわせて、2つの部材を接合していたのです。このほぞの先に楔を打ち込むと、ほぞの先が割れて左右に広がることにより、部材同士の接合力が増します。これが、楔の技術です。
木材は時間が経つと収縮しますが、ほぞの隙間に再び楔を打ち込むことで部材同士を再度固定し、強度を維持することができるのです。
楔とは、木と木を組み合わせて接合させる技術のこと。宮大工の世界では、最も重要な技術の一つと言われています。
今日、日本に古い寺社仏閣が多く現存するのは、楔の技術のおかげかもしれません。