日本におけるねじの規格化
近代日本における工業の黎明期
幕臣・小栗忠順が遣米使節団としてワシントンにある海軍の造船所を視察し、その優れた工業技術に驚いたのが、1860年のことでした。
小さなねじに、正確に刻まれたねじ山。日米の差を端的に表す存在として、小栗忠順は1本のねじを持ち帰ったのです。
帰国後、小栗忠順はフランスの協力を得て、1865年、日本工業化の第一歩となる「横須賀製鉄所」を設立します。
その後、施設の拡張工事などを経て1871年に造船所へと改称。ここから日本は近代化の道を歩むことになるのです。
標準化への歩み〜戦前から戦中まで〜
メートル法が国際条約として締結されたのは1875年のことでしたが、これに遅れること10年、1885年になって日本もこの条約に加入します。これにより江戸時代まで使われていた尺貫法から、日本でも国際基準のメートル法を用いるようになるのです。
1921年には、日本標準規格としてJES(Japanese Engineering Standard)が制定され、鉱工業品の国家規格を定めます。
その後、第二次世界大変へと突き進むなか、軍需品との兼ね合いにより1939年には臨時日本標準規格、1941年には日本航空機規格などの規格化が次々と実施されていきました。
標準化への歩み〜戦後〜
戦後は新JESとして日本規格が制定されていた時期もありましたが、1949年6月1日、工業標準化法が公布され、日本工業規格としてJIS(Japanese Industrial Standard)が誕生しました。
これが現在のJIS規格。現在ではサービス業が飛躍的に発展したため、「日本工業規格」ではなく、「日本産業規格」と呼ぶようになっています。
戦後の日本はアメリカの影響を強く受けていたため、JISにはメートルねじ・ウィットねじ・ユニファイねじの3つの規格がありました。
しかし、1965年にはISOねじを導入するなど、JISはISOに近づくよう改められています。
これにより1968年にはウィットねじが廃止され、現在のJISはメートルねじ・ユニファイねじの2つの規格のみとなっています。
JISをISOに統一!?市場が求める附属書とは
現在、JISねじをISOねじに統合させようとしていますが、ねじは産業の隅々にまで使われているため、規格をなくすと大変な問題が発生してしまいます。
すでに使用されているすべてのねじを、一斉に取り替えることは不可能だからです。
そのためISOの規格に合わないJISねじは現在、「附属書」として残されています。附属書は将来的には廃止の方向とされますが、まだまだ市場でのニーズは高いようです。